こだわりの商品づくり


フリーデン・ストーリー vol.2 ~加工部門創設時のエピソード~ エピソード

手探りでのスタート、試行錯誤の繰り返し……。
失敗や成功を積み重ねた先に、現在の加工部門がある。

フリーデンにハム・ソーセージなど加工品の部門が誕生してからおよそ40年。Vol.1では、加工部門創設からの歴史を紹介しましたが、今回は当時の失敗談や苦労話などのエピソードを3回シリーズでご紹介します。 話を聞いたのは、vol.1に続き藤原正史。1976年に入社後一貫して加工部門に従事し、伊勢原工場2代目工場長を務めた生粋のフリーデンマンです。


藤原正史
伊勢原工場2代目工場長

フリーデンが加工品の取り組みを始めた直後、 1976年4月に入社。 会社の寮の1階にあったハム製造プラントで、加工品製造に携わるようになる。その後一貫して、フリーデンの加工部門に従事し、1987年には伊勢原工場の2代目工場長に就任。歴史を学び、本物のハム・ソーセージを追求し続けた。現在、商品部商品開発課技術指導員。 大切にしていることは「お袋の味」。子供の頃の味の刷り込みと料理のつくり方が商品づくりに生かされている。

エピソード2
自分でつくって、自分で卸して、自分で売った。
工場のメンバーで販路を開拓。

全部自分でって!?
どういうこと?
今でいうマーケティングの原点のようなエピソードだよ。

藤原:

一方、今ではなかなかできないような行動が実を結んだエピソードもあります。1976年に入社して加工部門に配属されたとお話ししましたが、当時すでに4人がハム製造の実験プラントにいたところに、私を含め3人も入社したので、けっこう暇な時間がありました(笑)。仕込みは屠場に肉を取りに行き、かついで帰ってきて、除骨から何から全部やるのですが、それでも2日くらいで終わってしまう。製造は1週間に1度で十分だったし、あとは暇だから寝ていました(笑)。

そこで販路開拓をしようということになりました。当時は販路が横浜しかなかったので、興信所を使って環状8号線沿いの優秀な精肉店を調べてもらって、工場のメンバーで売り込みに行きました。自分で商品をつくって、卸しながら営業をするのです。私は世田谷の精肉店に毎週、水曜か土曜に通っていました。入社した年の9月に始めて、11月3週くらいまで通いました。それ以降は年末用のハム・ソーセージの仕込みが忙しくなって行けなくなったのです。

ウインナーを10キロ単位で袋に入れて持って行って、小袋で量り売りをしました。まずは試食してもらいます。店頭では焼いて出していたけれど、「家ではボイルして食べてください」と言っていました。お客さん1組につき300グラムで売れることが多かったですね。だいたい1週間で消費しきる量です。それで味を分かってもらえると、また買いにきてくださいます。

最初は20キロ持って行って10キロ売れる程度でしたが、最後の頃には80キロ持って行くようになりました。その日のうちに60キロくらい売れて、お店の人が「残りはこちらで売っておくから」というのでお任せしました。毎週続けたことでお客さんにも浸透して「また来ているね」と言われるようになりました。

大学出たての若者が、肉屋のおやじ、プロの大人を相手に商売するのですから、丁稚奉公みたいなものでした。最初の頃は「あんたたち、学校で勉強してきてるんだから何でもわかるよね?」なんて言われて(笑)。それでも実績ができてくると、こちらの言うことも聞いてもらえるようになりました。「今日は工場から来ているから買ってよ」なんてお客さんに声をかけてくれて、上手に使ってもらったなと思います。

このようなイチからの積み重ねによって、最初は会社の寮につくった製造プラントからスタートして、3年後には新工場を伊勢原の地に建てるまでに至ったのですから、チリも積もればのような活動が成功につながることが成長期にはいっぱいあったと言えます。

曽我の屋ハム


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